招かれざる客といざ出国

 3月18日(水)、朝早く目覚めた。寝る前にパッキングは済ませていたが、空港に向かう前にやるべきことがある。primary school に子どもたちに挨拶に行くのだ。昨夜クラリスに、子どもたちに挨拶をすることなく日本に旅立つことになってしまったことが悔やまれるので、

 
     "I really wanted to see children..."
 
と言ったところ、
 
     "Can you go to school before leaving? To say goodbye. "
 
と言われた。確かに、それは良い考えだと思った。家を出るのは昼前だし、パッキングを済ませておけば、学校までは近いので、余裕で戻ってこられる。しばしのお別れ前に、子どもたちの顔を見ておきたい。だから早起きをしたのだ。
 朝ご飯として、クラリスが昨夜作ってくれたスープを飲みながら、仕事に出かけるクラリスとたわいもない会話をしていた。クラリスともまたしばらくお別れか。今回は、コロナが落ち着くまではベナンに戻って来られない。夏には終息するのではないかという勝手な見通しを立てて、9月に戻る往復便を取っていた。というか、クラファンがあるので、何としてでも9月には戻らなくてはならない。
 そのときであった。玄関のドアを叩く音が聞こえた。こんな朝早くに来る客といえば、大抵ご近所のママさんで、クラリスに何か食べ物をねだりにやって来るか、ただ単に挨拶をしに来るかのどちらかだ。ところが、いつも通りクラリスが玄関を開けると、クラリスは大層驚いて、その人物に抱きついた。私が座ってる位置からは、その人物が誰であるか見ることが出来なかったが、クラリスが中にいる私に振り返り、
 
     "Maki, you have a guest."
 
と言った。そして、そこにいた人物は、ゆらりと中に入ってきた。何とクレオパトラであった。
 なぜ、彼女がここに。昨夜、私は確かにメッセージを送った。今日、日本に出発する、と。そして、厳密に言うと、彼女には数日前にもブチ切れメールを送っていた。
 私が勤めているはずのベリから何ヶ月にも渡って放置され続け、給料未払い問題も未だに続いており、2月にベナンに戻ってきてからもそれが変わらず、もう私は辞めるつもりでいた。クレオパトラにもリオネルにも何度も連絡したが、いつも解決に至らない。
 そして先週、彼女から唐突に、『会議があるから出席してくれ。』との連絡が入った。今まで散々私からの連絡は無視していながら、呼び出すときは唐突で、しかも有無を言わさない口調にさすがの私も腹が立った。私の経済的な状況は何度も訴えていたのに、返信が無かったから、私なりに他の場所を見つけようとしていたし、ドソウさんもその機会をくれた。会議は土曜日であったので、土曜日はドソウさんとの仕事があるから出席出来ない、と言うと、どうして出席出来ないのだ、これはとても大事な会議だ、いてくれないと困る、と言ってきた。それならば、なぜもっと前に言わないのだ。しかもその会議があると言われたのは、会議のたった2日前だ。こっちにも予定というものがある。私が日本に帰る必要が出来たのも、実は経済的な事情が一番の理由だ。コロナのせいだけではない。もう無給でこの地に留まることが出来なくなったのだ。だから、それを数日前にクレオパトラに言ったのだ。ベナンで働けないのならば、日本に帰らなくてはいけない、と。そして昨夜、飛行機を取った後に、明日日本に戻ることになったとも伝えていた。クレオパトラは、そのメッセージを見て、今ここにやって来たのだ。彼女は人の予定なんぞお構い無しである。出発することを知っていて、ましてや朝によくやって来たものだ。ここからまた喧嘩が始まるのか。気が滅入った。
 『忙しいから帰ってくれ。』と言おうとしたが、その前に彼女が、
 
     "I came here yesterday. I knocked the door, and called your name. I heard your voice inside but you didn't come out. I also called you many times."
 
と言った。それには大変驚いた。昨日、昼間飛行機のサーチングをしていたのだが、途中、日本にいる友達と電話をするために寝室で寝っ転がっていた。寝室から玄関は見えないし、電話をしていたので、ノックも聞こえなかった。クレオパトラは、私が数日前に送った、「日本に帰らなくてはいけない」というメッセージを見て、話をするために昨日ここを訪れたのだという。ところが誰も出ず、そして、さらに私が昨夜送った「明日日本に戻ることになった」というメッセージで、何としてでもその前に話し合わなくては、と思って再びここにやって来たのだそうだ。そういえば昨日彼女から電話が来ていたが、忙しくてかけ直さなかった。
 こう言うと、クレオパトラは何て良い人なんだ、と思うかもしれないが、こういう話し合いは以前もした。ところが、それでも結局変わらなかった。もう私もベリに見切りをつけようと思っていた。
 クレオパトラは、私が先週の会議に出なかったことに、disappointed であったと言ってきたが、私も私の言いたいことは主張した。給料が出るかも分からないところにしがみついていくことは出来ない。今私はクラリスに生活費も払うことが出来ていないし、勘違いされているだろうからこの際はっきり言うと、日本人が全員金持ちだと思うな、とも言った。私は親の援助を受けることも出来なければ、日本で稼いだお金も全てこの数ヶ月で消えた。クレオパトラも強いが、私も口では大抵負けない。小学校から培ってきた武器だ。男の子との口喧嘩も何度となく勝ってきた。何度泣かしたことか。
     I am really poor. を何度言っただろうか、クレオパトラがついに、ため息をつきながら、
 
     "How much money do you need to live here?"
 
と聞いた。今更それを聞くか。奨学金の返済と生活費込みで、少なくとも1ヶ月にこのくらいは必要だ、と言った。それについては、リオネルにもドソウさんにも、もちろんクラリスにも話している。そして、全員が、その額を稼ぐには何かしら複数仕事を持たなくては、と言っている。と言うか、ベナンでは兼業が普通なので、大抵皆複数仕事を持っている。公務員とか銀行員でない限り、1箇所から生活費を稼ぐことが不可能だからだ。
 だから私も、ベリ以外のところでも働く場所を持たなくてはならないのだ。しかし、ベリに雇われてるのか何なのか分からない状況なので、他の場所で働く機会も奪われていた。
 前回もこのような喧嘩はしたが、今回は特に思いの丈をぶつけた。文字通り、泣きながら困窮状態を訴えた。私としては、大使館から強制帰国を命じられない限り、3月に帰ろうとは思っていなかったのに、金銭的な事情で帰らなくてはならなくなるなんて、無念すぎるのだ。
 こんな泣きながらの喧嘩であったので、細かなやり取りはもはや覚えていないが、クレオパトラは前回と同じように、ベリで働けば稼ぐことができる金額を提示してきた。前回も思ったのだが、なぜ、私を釣る必要があるのか。英語の先生ならば、他にもいっぱいいるし、仕事に呼ばないなら解雇すればいい。というか、もはや解雇すると言ってくれた方がこっちも自由に動けるのだ。縛り付ける割りに働かせてくれない、給料をくれない、という状況が一番困るのだ。
 
     "Do you really need me? Make sure that you can hire me before saying that."
 
と言った。今一度、私が本当に必要なのかどうか、リオネルとも話し合ってくれ、とも。
 すると彼女は、
 
     "If I don't need you, why do I have to be here? Why did I come here? Why am I talking with you? I am a really busy person."
 
と言った。またそういうことを言って、私を釣るのか。兎にも角にも、今日はもうこれ以上話し合う気になれない。私が今日出発することはもう変わらないし、今解決出来るものでもない。
 帰ってほしい、と思って、彼女に帰るよう促した。クレオパトラも、出発前の忙しいときに来て悪かったとは言ったが、そんなことより子どもたちに挨拶に行く時間が無くなってしまったことが気にくわないのだ。まだ、彼女を信用する気にはなれない。
 彼女が帰ったあと、ドッと疲れがきた。クラリスクレオパトラと入れ替えに仕事に向かったので、事の顛末をクラリスに WhatsApp で伝えておいた。クラリスから見れば、クレオパトラはかつての先生だ。久しぶりに会って抱きついていたくらいだし、あまり悪口は言いたくないが。
 葛藤はある。自分は仮にも日本人で、今はお金は無いが、そりゃ1ヶ月日本で働けば、ベナン人からすれば金持ちにはなれる。途上国から給料をむしり取ろうとする私がおかしいのだろうか。私の性格がひん曲がっているのだろうか。人から見れば、無事に生きているだけ有り難く思え、と思われているのだろうか。しかし実際、お金無くしてどうやって生きていけばいいのだ。もちろん、今回も日本に戻ったら何かしらの仕事はするが、それらは全て奨学金のや親への借金の返済に消えるし、クラリスの日本滞在費も取っておかなければならない。だから、ベナンではベナンの通貨でお金を稼いで、日本円の蓄えは当てにしたくないのだ。
 釈然としないまま、最終的な準備に取り掛かった。すでに出発まで1時間ほどになっている。風呂場に置いてあるものや寝室に置いてあるものを次々に入れていき、タクシーが来るのを待った。
 クラリスから連絡が来た。タクシーはすでに家の前に止まっているとのことだ。スーツケース2つを転がして、鍵をかけて家を出た。この家ともまたしばらくお別れだ。家の前まで来ると、門の前にいつも良くしてくれるママさんたちが座っていた。火傷の心配をしてくれたママさんたちだ。クラリスは、私が日本へ戻ることや帰って来ることを極力人には言わない。お土産をあてにされるからだ。だから、このママさんたちも私がスーツケースを持って出て来たのを見て初めて私が日本に戻ることを知ったようだ。片言のフランス語で、「9月に戻る」と伝えた。幸い、september がフランス語の発音とも似ているので、通じた。
 タクシーと思しき車が、家からやや離れたところに止まっていた。あれがタクシーだろうか。私が迷いながら近づこうとしたからだろうか、ママさんがタクシーのドライバーに話しかけた。クラリスという名前も聞こえたので、どうやらちゃんとクラリスが手配してくれたタクシーのようだ。ママさんたちは、間違いなくクラリスが手配したタクシーであることを確認して、私に乗るよう促してくれた。重いスーツケースを自分で車に乗せようとしたら、ママさんたちが手で制して、ドライバーにやってもらうよう頼んでくれた。
 ママさんたちは、最後まで優しかった。車に乗る前にハグをせがんだら、ぎゅーっと抱きしめてくれた。このハグもしばらくは出来ないのか、と思うと寂しくなった。そして、心の中で不安を感じずにはいられなかった。このママさんたちは、9月に私が戻って来ても、変わらずハグをしてくれるだろうか。コロナのせいで、きっとここベナンでも外国人への見方は変わるだろう。特に、中国人でなくてもアジア人に対する目は変わるはずだ。私が日本人であることは知っているが、中国と地理的に近いことも知っている。「コロナ菌を持っている人」と思われるのだろうか。せめて、クラリスや私たちの近くにいる人たちだけでも、変わらないでいてほしい。コロナのせいで、せっかく築きつつある友好関係が崩れてしまうことは、コロナ以上に恐ろしいことだ。
 不安になりながら車に乗り込んだ。ママさんたちはずっと手を振ってくれた。どうか、彼女たちが私に向ける目が変わりませんように。
 空港に向かう前に、クラリスの仕事場に寄ることになっている。クラリスに鍵を渡すためだ。ドライバーはスマホクラリスと話しながら運転をしている。この国に交通ルールというものは無いのか。頼むから事故にあわないでくれよ、と思っていると、ドライバーが話しかけて来た。英語しか通じないということが分かったのか、
 
     "Where are you from?"
 
と英語で聞いてきた。Japan、と答えると、案の定、
 
     "I want to go. I want to go."
 
と言ってきた。そしてお決まりの、
 
     "Marry, marry."
 
と、左手の薬指に指輪をはめているドライバーは繰り返した。全く、この国には日本人と聞けばすぐに結婚したがる男ばかりだ。今コロナが蔓延している日本に行きたいというのか。
 クラリスが電話で誘導しながら仕事場に着いた。クラリスに鍵を渡し、ハグをして別れの言葉を言い合った。クラリスは朝から、政府の声明が出ていないかを調べてくれていたようだ。そして、今の所まだ空港は封鎖されていないようであった。間に合ったか。いや、空港に着いて、無事に出国するまでは分からない。空港で門前払いという可能性もある。
 クラリスには色々と迷惑をかけて申し訳ないが、9月にクラウドファンディングのために必ず戻るから、と約束をした。今日本を襲い始めているコロナは、いずれここベナンでも猛威を振るうのだろうか。くれぐれも無事でいて、と言って、私は空港に向かった。
 空港に着いた。見たところ、封鎖はされていない。そして、珍しく列が出来ていた。外国人ばかりだ。皆、慌てて出国しようとしているのだ。そしてさらに珍しいことに、皆マスクをしている。中には手袋をしている人もいる。空港のスタッフもマスクをしている。空港に来ると、コロナの波が確実に押し寄せてきていることを実感する。
 物々しさはないが、とにかく無事に出国手続きが出来るまでは気が抜けない。いつもより緊張した面持ちでチェックインカウンターに向かうと、向こうから私と目が合って近づいてきた空港職員がいた。完全に私を目がけてやって来た。何事だ。まさか中国人だと勘違いをして、空港から追い出そうとするのか。と身構えた瞬間、
 
     "You are beautiful."
 
と言った。ガクッと来た。こんなときに呑気に何を言っているのだ。仕事をしたまえ、と思ったが、少し安心もした。これがベナンだ。きっと9月には私への目は厳しくなる。他の国ではアジア人を見た瞬間に差別をされたり暴言を吐かれたりもあったそうだ。結婚してくれ、と言われるのはもううんざりだが、こういう呑気なところは変わらないでいてほしい。
 ドキドキしながら、ついに無事にチェックインを終えた。昨日取った飛行機は、ちゃんと予約も反映されていたし、飛行機も飛ぶようだ。間に合った。後はエチオピアで足止めを食らわないことだ。シンガポールまで着けば、何とかなる気はする。とにかくアフリカ大陸が封鎖される前に出国しなくては。出国手続きもセキュリティチェックも無事に通過した。何もない待合室で、搭乗まで待った。
 数時間後、搭乗が始まった。さっきからやたらと気になっているのだが、どこの国の人かは知らないが、とにかく外国人が英語でベラベラと大声で話している。どうかこいつらと席が近くになりませんように。
 と思っていたら、思いっきり近くであった。危惧していた通り、搭乗してからずっと大声で喋りっぱなしであった。昨日から私は緊張状態であったので、眠気も襲ってきていた。少し眠ったが、声がでかくて何度か起こされた。しかも、英語で話しているので内容も耳に入ってしまうのが嫌だ。いっそ分からない言語ならばいいのに。内容もくっだらないことで、「コロナが怖いよー」とか言っている割に、自分たちは全くマスクもしていないではないか。しかも、機内が空いているからか、元の自分の席から移動して、5〜6人で密集して宴会を始めている。
 眠いのに眠れない。これは私が最もストレスを感じることだ。ついに我慢の限界が来た。立ち上がって、
 
     "Excuse me, could you speak more quietly please? And if you are afraid of corona virus, go back to your seat and sleep well."
 
と言った。シーンとした。中心になってベラベラと喋っていた男は、寝ていたと思った東洋人の女がいきなりムクリと起き上がって英語を話したことに驚いたのだろうか、この英語がどこから聞こえるのかが一瞬分からなかったようで、1秒の間に何回首を回しただろうかという速度でキョロキョロしていた。
 その後、彼らはひそひそ声で話していたが、ちょっと声が大きくなるたびに私が睨んだので、しばらくして大人しく自分の席に戻って、機内は静けさを取り戻した。
 
     "I have corona."
 
とか言ってやれば良かっただろうか。そしたら、さっきの空港職員も寄ってこなかっただろうし、このうるさい奴らも彼らから離れてくれていただろう。いやいや、そんなことしたら私が搭乗を拒否されるだろうし、機内からも降ろされるだろう。幸い、心の平穏も取り戻した私は、眠気がまた襲ってきたので、その後はぐっすり眠ることが出来た。
 そして、無事にエチオピアに着いた。想像していた通り、人で溢れかえっている。日本人らしき人も多い。青年海外協力隊やら NGO やら、とにかく皆慌ててアフリカを出ようとしているのだ。考えられる最悪の事態は、エチオピアでの足止めだ。飛行機を飛ばさないとか、空港を閉めるとか、とにかくここではいつ何時どんな緊急事態が起こるかが分からない。あるいは、この間にシンガポールが封鎖されないとも限らない。とにかくシンガポールまで行ってくれれば。祈るような気持ちでチェックインを済ませた。
 数時間の待ち時間を経て、無事に搭乗した。今回はうるさい乗客もおらず、静かに過ごせそうだ。長いフライトになるが、幸い3列に私だけだったので、足を伸ばしてグースカと眠ることが出来る。シンガポールに着きさえすれば、仮に足止めを食らっても何とかなる気がする。とにかくシンガポールまで無事に着いてくれ。昨日の夜逃げ状態から、今はさながら国際指名手配犯のようだ。アジア人であることから、いつもより警戒しておかねばならない。目立たないように、コソコソとしながら機内で過ごすことにしよう。