学校を語ってみる

 4月6日(火)、学校の先生として務めていたら新学期が始まる頃だ。社会人になってから、学校で務めていない年は無かった。毎年この時期は新学期でてんやわんやで、初めて会う生徒がどんな子たちか、楽しみにしているのに、今年は違う。

 調理師免許を取ろうと決めてから、お世話になる飲食店を探す...はずであったが、何だか学校を辞めてから腑抜けになってしまい、気がつけば4月になってしまっていた。慌てて就活を始めている。

 何だか学校が懐かしいなぁと思って、今日は学校を語ってみようと思う。

 大変な仕事ではあったが、何だかんだ楽しかった。思春期真っ只中の子どもたちと1日の大半を過ごすわけだから、衝突も当然起こる。あっちも本気、こっちも本気で、本気と本気がぶつかると、そりゃまあ凄まじいバトルになる。しかし、これもまた不思議なことに、こっちから謝ると、生徒は「ま、いいけど」という態度になる。

 世の中には、わいせつだの盗撮だの体罰だの、本当に人間としてくだらない先生も多いが、不思議なことに、生徒は変わらない。それは家庭教育がしっかりしているから、という考えもあるだろうが、家庭教育が機能していなかった生徒だって優しかった。私がどれほどクズな授業をしてしまっても、感情的に怒ってしまっても、翌日には必ず笑って「おはようございます」と言ってくれる。私が「ごめんなさい」と言えば、生徒は必ず分かってくれる。学校って、衝突も起こりやすいが、そういう優しさが生まれる場所でもあると思うのだ。

 何とかというユーチューバーが学校に行く行かないについて論じていたが、人によって考えは様々だし、クソみたいな先生も当然いるわけで、そりゃそんなところには行きたくないよなとは思う。選択の機会も増えてきているから、権利の幅は広がると思う。つまり、どの学校に行くかではなく、学校に行くか行かないかという選択をすることや、学校に行かないという、教育の権利を捨てることもあり得る時代になるんだろうなと思う。

 私にも昔、学校に行きたくない時期があった。あまり覚えていないが、父の転勤で、新しい学校に通い始めてからだったと思う。なぜか、慣れてきた頃に、行きたくなくなった。親には、行きたくないと正直に言ったか、お腹が痛いなどと仮病を使ったかは覚えていないが、とにかく学校を休みたい旨を母に伝えると、『あっそう。』くらいにあっさりしていた気がする。母としては、1日限りのことと思ったのかもしれないが、これが長引いた。あまり当時のことは覚えていない。理由を聞かれたかもしれないが、理由なんてなかった。今思い出しても、何で行きたくなくなったのかは分からない。別にいじめられたわけでもないし、勉強についていけなかったわけでもない。でも、はっきり覚えているのは、父にも母にも姉にも、学校に行くことを強要されることはなかったし、なぜ行かないんだと問いただされることもなかった。仕事が激務だった父も、さすがに心配はしていたと思うが、それでも何も言わなかった。幼少期から学校で優秀だったという父は、学校に行きたがらない私を責めることはなく、代わりに父が家に帰るなり発していた言葉は、『今日は元気に過ごしていたのか。』だった。

 学校に行ったかどうかではなく、元気だったかどうかを心配していた父と、私の大好物を作り続けてくれた母を強力な味方として得た不登校児は、「家にいれば安全」という安心感がしっかり育まれて、充電期間が済んだのか、しばらくして学校に戻った。それも何かきっかけがあったわけではないと思う。ふと、行ってみるか、という気持ちになった。私の感覚では数ヶ月くらい続いていたように思ったが、後の母の記憶では、わずか数週間足らずだったようだ。

 我が親ながらすごいよなぁと思う。私ももう親になってもおかしくない年齢になって、親の気持ちが分かるようになった。きっと私なら『なぜ行かないんだ?』と問いただし、より一層追い詰めていたと思う。待つ、ということが、子育てでどれほど難しいことか。

 私の場合、家でも学校でも深刻なトラブルがあったわけではないからラッキーだったが、日本全国、いじめや家庭での問題を抱えていて、明日を迎えるのが怖いと思っている子がどれほどいるのだろう。特にこのコロナ禍、凄まじく学校現場に爪痕を残してくれた。こいつのせいで、どれほどの子が学校に来れなくなってしまったか。政府としては、ワクチンも大事だろうが、ネット環境をしっかり整備して全ての子どもに教育へのアクセスを保証することも同じくらい大事な仕事だと思う。今はまだ目に見えないかもしれないが、多分数年後にははっきり数値で現れると思う、学力と幸福度で。