甘い誘惑と悩ましい日本語とホストとお母さんの気持ち
4月21日(火)、私はまたもや病院に向かっている。
ブータン人の彼氏の方もやって来た。彼は、 お兄さん夫婦だか親戚だか、 とりあえず一族で日本に移住しているのだが、 すっかりコロナに怯えてしまっていて、 家族の誰かが外出することをひどく嫌がるのだそうだ。だから、 付き添いに私が選ばれた。しかし、やはり心配だということで、 短時間ではあるが病院に来ることになった。
到着した病院は、とても明るくて綺麗であった。 コロナ対策として、3人とも体温を計られた。 受付で紹介状を渡し、事情を説明した。本来、 患者しか診察室に入ることが出来ないのだが、 彼女が日本語が出来ないので、 診察内容を私も聞いておけば、後から彼女のフォローが出来るから聞 いておきたい、と説明をした。さらに、心細いだろうから、 ということで彼氏の方も付き添いたがっているということも。
病院は、私たち2人の入室を許可してくれた。 待合室で数十分待った後、番号が呼ばれて3人で入った。 昨日と同様、色々な検査を行った。そしてようやく結果が出た。
何と、緊急手術が必要ということであった。もちろん入院も。 緊急といっても、この数日に行われれば良いのだが、 たまたま手術室が今日空いていて、 このお医者さん自らが執刀出来るのも今日ということで、 今日やってしまわないか、と言われた。 これには私たち3人は大層驚いた。 手術が必要であろうことは分かっていたが、 まさか今日から入院になるとは予想していなかった。 当然何の準備もしていない。だが、 入院に必要なものは、併設しているコンビニにあるからそこで買えば良いそ うだ。問題は、心の準備だ。彼女に、平易な日本語で、『 今日手術して、入院しよう』と伝えた。大事なことなので、 翻訳アプリも使った。彼女も少し驚いていたが、 一刻も早く治したがっていたので、了承した。そうと分かれば、 まずは彼女のお母さんに連絡しなくてなならない。彼女は未成年である。幸い、 時差は2時間しかないので、 お母さんももう起きているだろうから、と待合室で電話をした。
ベトナム語なので、当然細かいことは分からないが、 今日手術と入院をすることになったと伝えたのだろう。 電話口から、お母さんの悲痛な声が漏れ聞こえた。 その声には私も胸が苦しくなった。夢と希望を持って、 娘は日本に行ったはずなのに、こんなことになって、 親としては悔いもあるはずだ。 危険度が高い手術ではないとはいえ、駆けつけることも出来ず、 医者と話も出来ず、 とにかく見知らぬ私やお医者さんを信じることしか出来ないのだ。
意外にも、彼女の方は割りとあっさりしていた。 特に慌てたりすることもなく、 看護師さんと共に手術室に向かった。私と彼氏の方は、 入院に必要なものをコンビニまで買いに行った。必要なものは看護師さんにメモしてもらったので、 無事に全て買い揃えることが出来た。コンビニを出て、 入院の手続きに向かっていると、ブータン人の彼は私に、
『マキさん、これ受け取ってください。』
と言って、あるものを手渡そうとした。 反射的に手を差し出したが、0、 1秒後にまたもや反射的に手を引っ込めた。何と、お金であった。 それも大金の。
『えっ何で!?』
と聞くと、
『マキさん、全部付いてきてくれたから。雨の中も。 たくさん助けてくれたから。』
と言った。やめてくれ。今の私にそんな誘惑はしないでくれ。 貯金も使い果たし、ベナンでも無給で過ごし、 当然日本でも無一文の私は、 正直言って受け取りたいと思ってしまった。しかし、 やはり受け取ることは出来ない。お金が欲しいのは事実だが、 働いた対価として受け取りたい。 彼らに付き添ったことは友達としてやったことだから、仕事ではない。このお金を受け取ってしまうことは、私の倫理観が許さない。ブータン人の彼は、 お願いだから受け取ってくれと懇願してきたが、 こちらもそんな誘惑はしないでくれ、と懇願して、 ようやく納得してくれた。
この後、入院の手続きに進んだ。 手術をする本人はすでに手術室に向かったので、 私と彼氏が代理で行うことになった。 必要な備品はすでに買い揃えていたので、それも渡し、 書類の記入も進んだところで、会計欄が目に入った。しまった。 これをどうするかを話し合っておくことを忘れていた。果たして、 手術代は誰が払うのか。彼女は払えるのだろうか。係の人に、
『お会計のこと、話し合っておくのを忘れてしまいました。 一括で払えるのかどうかも分かりません。』
と正直に言うと、
『ご事情は医師から聞いております。お金のことは、 後から考えましょう。』
と優しく言ってくれた。最初の病院といい、こちらの病院といい、 何て懐が広いのだ。このコロナ禍で、病院はどこも大変なはずだ。 それなのに、 たらい回しにすることなくきちんと向き合ってくれた。
静まり返った病院の待合室で、 遅いお昼ご飯を食べながら待っていた。さっき、 彼女がお母さんに電話をしたときに電話口から聞こえた、 お母さんの泣き声が忘れられない。そりゃあ、「心配」 なんて言葉では片付けることが出来ない。こんなことなら、 日本に留学なんてさせなければ良かったと思っているだろう 。私の母だって、 私がマラリアにかかったときは、きっとこんなに心配していたのだろ う。出会ったばかりの彼女にこんな気持ちを抱くのも不思議だが、 こんなに辛い思いをしたのだから、 これからたくさん日本で楽しい思い出を作ってもらいたい。 元気になったら、色んなところに連れて行ってあげよう。
数時間待って、お医者さんがやって来た。テレビドラマで見る光景と同じく、手術着のままであった。そして、マスクを外して
『無事に終わりましたよ。』
と言ってくれた。本当に感謝しかない。彼女は今は薬で眠っているとのことだが、手術台に乗るまでも、特に取り乱したりすることもなく、指示に従ってくれたそうだ。この後、入院をして、金曜日に退院をしようということになった。
いきなり入院をすることになるとは思わなかったので、スマホの充電器も必要になるだろう。『明日、私の充電器を届けに行くから、お母さんや私に連絡をしてね。』というメモをお医者さんに託し、私も病院を後にした。
家に帰って、夜11時頃のことだった。彼女から電話が入った。電池がまだ残っていたのだろう。しかし、出ると彼女ではなく、看護師さんであった。何事かと思って話を聞いていると、術後の経過やリハビリ計画の書類に彼女のサインが必要なのだが、日本語が読めないため、簡単な日本語にして説明してくれないか、ということであった。途中までは看護師さんが一緒にやってくれたそうだ。もちろん引き受けた。書類の画像を写メで送ってもらい、目を通してみた。そして私は、しばらく国語辞典と向き合うことになった。
「浣腸をします」
果たして、これを簡単な日本語で何と言うのだろうか。「ウンチを出します」にしようと思ったが、「ウンチ」は通じるのだろうか。英語だろうが何だろうが、外国語を勉強したことがある人は分かるが、「ウンチ」のような子どもが使いそうな言葉ほど、外国人は習わない。かと言って、「ウンコ」はもっと通じない。迷いに迷って、「便がいつも通りになるようにする」にした。
「朝より流動食がでます」
これはどうだろうか。「流動食」は「ドロドロの食事」?我ながらセンスが無い。しかも、「ウンチ」同様、「ドロドロ」のような擬態語も外国人は習わないだろう。友達に知恵を借りて、「やわらかいご飯がでます」にした。
「疼痛のコントロールができる」
これに関しては、まずどう読むかが分からなかった。「とうつう」と読むそうだ。「コントロール」はもはや辞書通りの意味「管理する」でも「支配する」でもない。「ズキズキとした痛み」なんて、通じないだろう。悩んだ挙句、「痛いけど大丈夫」にした。