私と瑞穂さん

 12月29日(日)、いつものように出稼ぎを終えた私は、ある人と会うべく待ち合わせ場所に向かった。そのある人とは、この Blog にも度々登場している、菅野瑞穂さんである。福島県で生まれ育ち、現在は南三陸に暮らしている。その瑞穂さんが東京に遊びに来ているというので、会いましょうということになった。今日は、瑞穂さんとの出会いから今に至るまでを語ろうと思う。

    瑞穂さんとは、私が数年前に、某旅行会社の東日本大震災復興支援ツアーに参加したときに出会った。旅好きの私は、もはやその頃には普通の旅では満足出来ず、現地の人と交流をしながら被災地の様子を知ったり、被災者の話を聞くことが出来るということに魅力を感じた。テレビで知ればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、私はテレビが好きではない。真実だけを淡々と語ってくれればいいものを、変な BGM や誇張表現を伴って、時に解釈まで押し付けられているように感じるからだ。だから、テレビよりも新聞、そして新聞よりも、実際に現地に行って自分の目で見て、自分の耳で聞いたものを信じたいのだ。
    東日本大震災のときは、日本中が大混乱に陥って情報が錯綜した。何が真実で何が嘘なのかも分からなかった。国民はパニックで、あらゆるデマが流れて正確な情報が流れてこなかった。私も、海外のニュースを見て初めて、原発事故に関して日本とは全く異なる報道がされていることを知った。日本への観光客や移住者に避難命令まで出ていたというのに、日本国民がそれを知らないとは、メディアがいかに人を操作出来るほど力を持っているかを思い知った。
 「福島産」と聞いただけで、買わないと決めつける消費者もいたようだ。拒絶をする前に、まずは知ること、聞くことが大切である。物事の良し悪しを決めるには、まずは十分に判断出来るだけの材料を集めなければならない。それらを知った上で、怖がりたい人は怖がればいいのに、材料も無いくせに、何も知らないうちから「悪」と判断するような愚かな人間ではいたくなかった。理屈抜きで怖がっていいものなんて、虫と雷と注射くらいだ。あんなものは、いくらその効果を知ったところで私の恐怖は拭いされまい。
 そんなこんなで、数年前にそのツアーに参加した。被災地は、場所によっては車窓からではあったが、窓越しではなく、自分の目で直に見ることが出来たところもあった。福島の美しい自然を背景に、人間が作り出した除染廃棄物が入った黒いフレコンバッグが置かれていて、変なコントラストで異様というか、不気味であった。

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きれいな緑と青を背景に、存在感だけが異様に大きいフレコンバッグ。
    被災者の話は、途中から聞くことすら躊躇われた。家族を亡くした話など、ただのツアーの参加者が聞いていいものだろうか、と。ある日突然、大事な人がいなくなり、自分の愛する故郷が世界から置き去りにされて、それだけでなく、忌み嫌われるくらい負のイメージが付きまとうようになるなんて、そんな理不尽なことが自分の身に降りかかったら、と思うと、悲しいというより、怖かった。故郷を失うということは、アイデンティティを失うということだ。
    瑞穂さんは、福島の農業を蘇らせるべく、立ち上がった。自ら会社も興し、福島の土を生き返らせるために研究者と協力し、研究に研究を重ねて、「安全」を勝ち取った。ツアー参加者の我々にも、きちんと数値を見せて証明してくれた。私が一番欲しいのは数字だ。どれだけ安全と言われても、数字が無いのなら信用しない。この数字を見て、私は瑞穂さんの農産物を信用すると心に決めた。以来、お米はわざわざ瑞穂さんのところで出来たものを送ってもらっていたし、瑞穂さんが東京で開かれるマルシェに出店する際も、瑞穂さんのところの野菜を買ってきた。お米やお野菜を買うことで何か協力出来ているとは思わないが、単に私は瑞穂さんの農産物が欲しいから買っている。高いお金を出してでも、安全が証明されているものが欲しい。瑞穂さんがこれだけ理論的に研究と調査で安全を証明しているのだから、皮肉なことに、むしろ瑞穂さんの農産物こそが世界一安全な食べ物なのではないかと思う。
    実はというと、私が自分の夢を叶えるためにベナンに渡ったのは、瑞穂さんと出会ったからと言っても過言ではない。同年代の瑞穂さんが、故郷の復興のためにいち早く立ち上がって、原発の恐ろしさや惨さを訴えてきたというのに、片や私は毎日のほほんと生きて、良き職場という温室で、何のストレスや不安、恐怖を感じることなく生きてきた。どっちかと言うと、ストレスや不安や恐怖を、「与えてきた側」だった気がする。『発展途上国で英語を教えたい。』という夢があったくせに、たった一歩、踏み出すための勇気すらなかった。独身で家族も超健康、時間もお金も十分にあったはずなのに、私は何もしてこなかった。やれなかった、ではなく、やらなかっただけだった。
    しかし、瑞穂さんのように、私も全身全霊で、生涯をかけて大事なものを守ってみたかった。その姿が本当にカッコ良かったからだ。
    だから、私が2018年12月に初めてベナンに渡ったとき、現在の勤務先でもある "ベリ" で、模擬授業をやってくれ、と言われたとき、私は迷うことなく瑞穂さんを題材にすると決めた。ベリはビジネススクールで、ビジネスを志す若者が通う学校であり、「起業」と「リーダーシップ」をテーマに授業をしてくれ、と私を雇ってくれたリオネルが言ったのだ。瑞穂さんはまさしく自ら会社も興したし、福島の農業復興においてリーダーシップも担った。与えられたテーマに、瑞穂さん以外に当てはまる題材など無かった。
    この模擬授業に関しては、いずれどこかでまた詳しく記したいが、ざっくり言うと、日本で起きた未曾有の大震災とそれに伴う原発事故について説明し、瑞穂さんが、福島の農産物の信用を取り戻すために奮闘したこと、そして農業界において、まさにリーダーとなったことを伝えたのだ。
    世界最高峰の技術を誇る日本にも解決出来ない問題があるなんて、と嘆いた学生もいれば、日本にそんな悲しい歴史があるなんて知らなかった、と目を伏せて思いを馳せてくれた学生もいた。
    この模擬授業が結果として、リオネルが私を雇うと決めた判断材料となったらしい。そういう意味でも瑞穂さんと出会ったことに感謝をしているが、私の尊敬する人の名前である "Mizuho" と、美しい自然に溢れている場所 "Fukushima" という、私にとって大事な2つの言葉をベリの学生が知ってくれたことと、その一役を担えたことに心から感謝しているのだ。
    瑞穂さんとはそれ以来、ツアー会社を介すことなくプライベートにおいても会う仲になった。1年に1回は福島へ行って、被災地を見て、被災者の話を聞き、原発事故の悲惨さを少しでも知ろうと努めた。震災当時は小学生だった子たちの話も聞いた。学校には今でも、放射線量を測る機械が、あたかも前からそこにあったかのように置いてあり、子どもたちは未だに甲状腺検査を受けているのだという。
 やるせなさを感じたのは、何の罪もないこの子たちが、福島の未来を考えて、自分たちが出来ることに取り組んでいたことを知ったときだ。私たち大人が押し付けた負の遺産を、この子たちは一緒に背負おうとしていた。東京も被災したとはいえ、私自身は無傷で家族も無事だった。そんな私が言えたことではないが、本当に申し訳ないと思った。
    元々、興味がある分野ではあったが、このときからだったと思う。「環境問題」という言葉がさらに濃く刷り込まれたのは。だから、ベナンでも即座にゴミ問題に目がいったのだと思う。放射能しかり、悪臭しかり、目には見えないし、はっきりと「体に悪いもの」と子どもたちには認識が出来ないから、大人たちにこそ彼らを守る責任がある。教育の機会と良い環境は、国と親が子どもたちに与えるべき最も崇高な権利だ。押し付けてでも与えなければならない。
    瑞穂さんと出会ってから、早4年。瑞穂さんの背中を追い続けてきて、ようやく自分も自分らしく生きられるようになった。瑞穂さんのように、と言ったらおこがましいだろうか。いつか、2人で何かプロジェクトが出来たらいいな、と思っている。
 今日瑞穂さんに再会して、出会ってから今日までのことを思い出した。いつか日本の農業界のリーダーを、ベナンに招くことが出来たら、とまた1つ夢が増えた。

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瑞穂さんと。