私の和訳翻訳通訳理論

 9月10日、今日もマラリア故に大人しく家でちょこんとしている。もう治ったと思っているが、復活する可能性もわずかに残っているため、なかなか外出が出来ない

 ところでここ最近、クラリスがやたら日本語を学びたがっている。最近質問されたのは、
 
    "How do you say 'I love you.' in Japanese?"
    "What about 'see you tomorrow.' "?
    "What is 'I'm a singer.' in Japanese?"
 
である。おいおい、なんだなんだ。"I love you." だと?これは誰に言うつもりなのか、大いに気になるところだ。しかし、聞けば女友達に日本語が出来るアピールをしたかっただけのようだ。
 とりあえずクラリスは歌手ではないだろう、と突っ込みたかったが、楽しそうに学んでいるので突っ込まないでおいた。
 側から見ると、何てことない、ただのクラリスと私の楽しい会話に見える。しかし、実はこれが私を大いに悩ませている。迷惑、という意味ではない。言語の限界を感じるからだ。
 このブログのイントロダクションにもあらかじめ断りを入れているのだが、このブログには和訳は一切載せていない。その理由はイントロダクションでは、あっさりと『和訳は嫌いだから』と記したが、厳密に言うと、『嫌い』というよりは、『出来ない』からやりたくないのだ。能力的に、という意味ではない。実現性の問題だ。つまり私は、和訳とは実現不可能だと思っているのだ。
 例えば、クラリスに聞かれた "I love you." とは、私にとっては『愛しています。』ではないのだ。日本語は実に表現が豊富で、友達同士で言う場合は『大好きだよ。』が良さそうだ。事実、私もクラリスとよく、"I love you." を言い合う。ましてや、語尾も『〜ます』『〜だよ』など様々にあり、もはや数え切れないほど  "I love you." の和訳が存在する。この大量にある和訳の中から、文脈や人物などを考慮して適切な日本語を選んで和訳するというのは理論的には可能のように見えるが、私はそれでもやりたくない。第一に面倒臭いから、第二にやっぱり無理だから、である。面倒臭い理由は面倒臭い以外の何者でもないが、『やっぱり無理だから』の理由をもう少し補足する。和訳、というくらいだから当然オリジナルの言語が存在する。先ほどの例で言うと、"I love you." のことだ。そして、それを言った人物が存在する。つまり、クラリスのことだ。和訳をするということは、クラリスが発した言葉を英語という言語を媒体として私が聞き、私が日本語に置き換えるということだ。クラリスが言ったことを、私の言葉で伝えること、しかも別の言語を媒体とすることが、私は受け入れがたいのだ。人物も異なり、媒体となる言語も変わる。本人が言ったことを忠実に100%伝えることなど出来るわけがない。100%ではないのならやりたくないのだ。
 これが、ただの説明書や機械的なものならば問題ないのだ。感情を必要としないからだ。というか、私はそんなものはさっさとAIにやってもらった方がいいと思っている。ところが、人が話す、生きた言葉を翻訳や通訳をすることにはとても抵抗があるのだ。人が話す言葉には当然感情が伴う。その感情をその人の母語で表すことすら難しいのに、ましてやどうして違う人物が違う言語で出来ようか。
 気難しい人だ、と思われるのを覚悟でさらに言うと、当然私は翻訳、通訳されるのも嫌いだ。これが私の手に負えない言語なら諦めもつくが、英語という場面ならば自分が書いたことや言ったことは自分で翻訳、通訳するようにしている。それすらあまり好きではないが、自分でやるならば言葉を選べるからまだ良い。人にされたときの、『そんなこと言ってないんだけど』という、自分の本意ではない言葉に置き換えれたときの絶望感たるや凄まじい。自分が言ったことより少ない言葉であっさりと片付けられるのも嫌だが、自分が言ったこと以上に、その人の余計な感情が入り混じった、余計な言葉でゴテゴテに装飾された綺麗な日本語に置き換えられるくらいならいっそ翻訳も通訳もしないでもらえる方がありがたい。
 英語の先生をやっていると、通訳させられるときがある。結論から言うと毎回大失敗であった。やはり私には向いていないということがよく分かった。記憶力が怪しいという理由もあるが、人が英語を話しているときは私の頭も英語脳になる。従って、日本語で考えていないのだから、日本語の意味どころか、日本語の語順にすらなっていないのだ。それを数秒後に、『はい、日本語にしてください。』と言われると、誰もがビックリするような、片言でもない奇妙な日本語が出来上がる。これは能力の問題である気もするが、少なくとも私にはその能力は無い。言語が変われば思考回路も変わる。そのスイッチが私には難しいからやりたくないというのも理由の1つだ。
 しかしやはり、時間を与えられたところで私は言語を別の言語に置き換えるということは嫌いだ。言葉はその人の言葉のまま、その人の言語のまま受け取るのが一番望ましいと思っている。つまり、クラリスが言った "I love you." はクラリスの "I love you." でしかないのだ。簡単な英語に見えても、何人(なんぴと)たりともこれを日本語にすることは出来ない。
 偉そうなことを言ってきたが、私が扱える言語は日本語と英語だけだ。いつかしっかりフランス語と、出来たらクラリスの現地語をマスターして、彼女のことをもっと分かりたいと思う。そうすればもっと彼女と良い関係を築くことが出来る気がする。私が勝手に自分の長所だと思っていることは、自分のこの和訳翻訳通訳理論を人には求めていないことだ。この考えを人に押し付けるつもりは全く無い。クラリスに日本語を学んで欲しいとも1ミリも思っていない。もちろん彼女が学びたければ止めはしないが。
 まとめると、やはり私はある言語を別の言語に置き換えることは、不可能であるがゆえにやりたくないのである。従って、このブログでも英語で話されたものはそのまま載せる。私なりに、これまで登場してきた人物の人となりは細かく説明してきたと思っているので、その人となりとその人の英語を鑑みて、『この人だったらこういう日本語かな』と、読者の皆様にその解釈を委ねたいのである。私の拙い言葉でオリジナルの英語を台無しにすることはしたくないのである。とは言え、全てを英語で載せることは記憶力の観点で不可能だ。ところどころ、要約している部分はある。しかし、その要約した内容も、余計な感情は決して差し挟まずに日本語にしている。事実のみを淡々と述べ、私の感情は一切入れない。これが、私にとっての話し手への一番の敬意なのである。 
 ということを書いている間に、どでかい蚊を2匹退治した。全く、油断も隙も無い。少なくとも私は今すでにマラリアになっているのだから、マラリア患者は刺さないという暗黙のルールがあってもいいのではないか。
 では最後に、私が蚊を2匹退治したことを報告した際のクラリスの言葉でこの記事を締めくくる。
 
    "Congratulations, Maki."