クラウドファンディング挑戦のきっかけとビザ取得と人種差別問題

読者の皆様
 
 昨日に引き続き、恐縮ではございますが、お願いがございます。10月25日(金)より、私とクラリスクラウドファンディングを始めます。経済的な理由で学校に行けないベナンの子どもたちに教材や制服などを援助するプロジェクトです。期間が短い上に必要な金額が大きいという非常に厳しい条件です。どうか、皆様のご支援、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。電波状況にもよりますが、プロジェクト終了までは極力毎日クラウドファンディングについての最新情報を載せていきたいと思います。
 思えば、ベナンに来てから数週間目の8月、クラリスと私は互いに教育に熱意と関心があり、ベナンには貧困ゆえに学校に行けない子どもたちが数え切れないほどいることをクラリスから教えられました。『学校に行けない子どもたちがいる世界なんて、あってはならないよね。』と初めてクラリスと語り合ったその日の夜に、クラウドファンディングをやってみようという話になりました。そこから情報収集を重ねて、無事に書類審査が通り、スカイプでスタッフの方と打ち合わせを重ねて…。ベナンの雨季中はとにかく電波が悪くて、スカイプも何度も失敗したり中断したり、メールのやり取りもこちらが一向に返信が出来なかったり、本当にスタッフの方にはご迷惑やお手数もおかけしました。さらに期間や金額など、あらゆる条件が厳しかったものの、プロジェクト実行までにこぎつけてくださり、スタッフの方には感謝の言葉しかありません。
 10月25日(金)、我々がお世話になっている Readyfor のサイト内で、我々のプロジェクトが公開されます。このBlog上でもリンクを貼る予定です。25日まで、今しばらくお待ちください。なお、我々のプロジェクトにつきましては、どの方にシェアしていただいても構いません。
 
..................................................................................................................................................................................................................................................................

 10月18日、今日はいよいよ更新されたビザを受け取りに行く日だ。ここまで来れば、後は受け取るだけなので、面倒な手続きは要らない(はずである)。再びシルヴィについて来てもらい、車で1時間かけて入国管理局まで行った。今日も相変わらず人で溢れかえっていた。冬休みに海外旅行を計画していてパスポート取得にでも来ているのだろうか。我々は受け取るだけなので、すんなりと入ることが出来た。

 前回とは異なる窓口に行った。思ったよりあっさりと自分たちの番が来て、パスポートが返還された。指紋だけまた取らされたが、問題なく終えた。そして署名をして終わりだ。念のためビザの内容も確認したが、間違いは無く、ちゃんと希望通りまた3ヶ月のビザが発行されていた。何か最後に一波乱あるかと思ったが、あまりにも順調過ぎた。強いて何かを言うなら、前回あれほど時間がかかった顔認証の際の写真がビザに添付されていたのだが、ブレブレで愛想もへったくれも無い顔で、よくこれで通ったな、と思ったくらいだった。
 とにかくこれで3ヶ月はまたベナンに滞在出来る。そして予定では12月から1月にかけて日本に一時帰国するため、また日本からビザを取れば良いのだ。めんどくさいしお金もかかるが、すぐにベナン人と結婚することが出来ない以上、仕方ない。
 無事にビザ更新が済み、家に戻り、フランスに住む従姉に無事に取得出来た旨を報告した。従姉とは毎日のように連絡をしている。と言うのも、ベナンとフランスでは、フランスの方が1時間進んでいるだけで、時差がほぼ無いのだ。今の私にとって、最も連絡が取りやすく、海外生活の相談にも乗ってくれる存在だ。近頃は明け透けな話ばかりで、普通身内でもこんなこと話さないだろうというような話までしている。
 ここ数日は、人種の話をしている。フランスも移民国家だ。しかも、アフリカ系の移住者も多い。幸運にも、私はベナンも含めて、これまで旅して来た国で見下されるような人種差別に出会ったことは無い。しかし、従姉はあったのだと言う。その経験があるからだろう。私が、日本のニュースを見て、『とあるお笑い芸人が人種差別発言をネタとして披露したらしいよ。』と言うと、従姉は極めて冷静にではあるが、やはり信じられないという感じであった。そして従姉とこの問題について色々と語り合った。
 そのお笑い芸人が過去にどんな教育を受けてきたかは知らないが、黒人を見下す発言をして許される環境にいたのだろうか。そんなことを教えた大人が周りにいたのだろうか。もしそうであるならば、ある種のマインドコントロールであり、責任の発端はその大人たちにもあると言える。しかし、そうでないならば、つまり、誰の影響も受けずに本当にそれがネタとして「ウケるだろう」と思ってやったことならば、これは誰に責任を追及したら良いのだろうか。もちろん本人たちが圧倒的に悪いのだが、このネタを作っているとき、一瞬たりとも「このネタは妥当か」と疑わなかったのか。彼らの周りに誰1人として彼らの暴走にストップをかけられる人はいなかったのか。いい歳した大人ならば、このご時世ニュースなり何なりで人種差別に関する話題は見聞きしてきたはずだ。そのときに、彼らは何とも思わなかったのか。自分たちには関係の無いことだから、自分たちはやってもいいと思ってきたのだろうか。もしそうだとすれば、残念ながらこれはもはや教育の範疇ではない。『人種差別をしてはいけません。』と教えたところで彼らの胸には響かない。
 この話をしていたとき、自分の小学生時代を思い出した。何年生のときか忘れたが、確か低学年だった気がする。あるとき、クラスの女の子の体操服だかリコーダーだか忘れたが、とにかく彼女の私物が無くなった。後から全然違うところで発見された。物を隠されたことは初めてだった気がするが、彼女のことをよく思っていないクラスメイトは元々いた。つまり、誰かに意図的に隠されたということだ。詳しいことは覚えていないが、状況的に他のクラスの子ではなく、私のクラスの誰かがやったに違いないということになって、学級会が開かれた。先生は、1人1人立たせて、『どうしていじめをしてはいけないか。』を問い、答えさせた。今でもはっきり覚えているのだが、私はそのときのクラスメイトの意見に違和感を持っていた。そしてもっと言うと、担任の先生の誘導尋問とも言える行為にも違和感を持っていた。クラスメイトは、『いじめられている子がかわいそうだから。』『その子が悲しむから。』ということを言っていた。先生は満足そうに『そうだね。』と言っていた。何を言っていいか分からなくてもじもじしていた子には、先生は『いじめられている子はどんな気持ちになる?』と問うていた。その子は、先に答えた子たちの答えをそのまま述べていた。
 私の番が来て、私は『私がいじめがある教室が嫌だから。』ということを答えた。実際はもっとしどろもどろで舌足らずな喋り方だったと思うが。しかし、今聞かれても自分はこう答えると思う。自分としては実に単純な答えだと思っている。いじめがある教室なんて自分がいたくないし、クラスメイトがいじめたりいじめられているということを見聞きするのも私自身がイヤだ。だから、私にとっていじめとは、「やってはいけない」と禁止されることではなく、私自身が「やりたくない」ものであるということだ。もっと簡単に言うと、虫や雷や注射と同じ、「イヤなもの」としてカテゴライズされているものだ。
 どうして私がクラスメイトの意見に違和感を覚えたかというと、彼らは自分の気持ちを考えたのではなく、他者の気持ち(ここではいじめられている子の気持ち)を考えて発言をしていたからだ。一見素晴らしいことのように見えるが、私は、自分がどう思うかを考えることなしに、他者の気持ちなんて絶対に推し量れないと思っている。つまり、いじめられている子の気持ちを考える暇があったら、自分自身がいじめについてどう思っているのかを真剣に問うべきだと思う。ましてや学級会という限られた時間の中で、自分の気持ちも考えていない子どもが他者の気持ちなんて分かるわけがない。小学校のしかも低学年であったので、言語化はやや難しいが、低学年なら「いじめがイヤだから」で十分だと思う。すると、「イヤなことはやらない」と論理的に繋がる。他者の気持ちなんて、所詮分からない。聞いても無駄だと思う。ましてや、いじめられている子の気持ちなんて、「かわいそう」や「悲しむ」なんてそんな言葉では済まされない。言語化することの方がより一層の侮辱であると思う。そんな陳腐な言葉を模範解答にするくらいなら、「生涯をかけていじめとは何かを自らに問え」という課題の方がマシな気がする。
 話をお笑い芸人に戻すと、彼らは彼らなりに謝罪をしたようだが、根本的に彼らの差別体質は変わっていないと思う。残念だが、いい歳こいた大人が自信満々にネタを披露したようなので、恐らく自分たちの何が悪かったかも分かっていないと思う。笑いが欲しかったようだが、結果として笑いは取れたのではないか。滑稽という名の笑いではあるが。
 しかしこの問題、滑稽なお笑い芸人でしたね、と言うだけでは済まない。すごく根が深いと思う。今回は幸運にもこのネタを「イヤ」と思った人が多く、クローズアップされたが、一介のお笑い芸人がこんなことするくらいなので、恐らく水面下ではこんなこと日常的に起こっているのだろうと思う。つまり、人を嘲笑ったり、身体的な特徴をネタにすることを「イヤ」と思わない人は少なからずいるということだ。これは果たして教育の問題なのか。もしそうならば、是正すべきは家庭教育か、学校教育か、もしくは両方か。
 先ほど私は、ベナンも含めて海外で「見下されるような」人種差別にあったことは無いと言ったが、私を「白人」と呼ぶベナン人の言動は人種差別にあたらないのか。言われている私ははっきり言ってイヤである。そんな、肌の色で私を呼ぶなと言いたいが、そもそも自分に突っ込むと、私は自分を白人と思っていないので、突っかかることも的外れなのかとも思う。もはや隠しもせずに、堂々と「白人の彼女が欲しい」と言われたこともある。悪気は無いとは思うが、私を「白人」という道具扱いしていることに怒りは少なからず感じている。見下されているとはちょっと違うが、ステイタス欲しさに利用しようとしていることは人種差別とは言わないのか。
 お笑い芸人の事例とベナン人の事例、一見全く異なる事例に見えるが、私は両者が考えていることは同じであると思う。両者とも『これを問題だと思っていない。』ということだ。生まれ育った環境か教育か、何に起因するか分からないが(ベナン人の場合は歴史的な背景が恐らく要因だろうが)、肌の色で人を判断することを何とも思わない人に、しかも何年もそんなことに無頓着であった大人に、どうやって『それは良くないことですよ。』と説くことが出来ようか。ましてや、それを公共の電波に乗せて不特定多数の人から笑いが取れると思ってやった人に、どうやって反省させることが出来ようか。彼らの場合、周りの人に指摘されて怒られたことは幸運なことだが、彼らの中で「肌の色に関わることはネタにしてはいけない」という知識を得ただけのような気がする。つまり、彼ら自身がそんなことをネタにするのは「イヤ」だからしないのではなく、「肌の色に関わることをネタにすること=間違っていること」という等式が出来ただけのような気がする。だから、彼らの反省の言葉が逆に私には恐ろしかった。そのマインドで何年も生きてきたわけだし、短期間で謝って改心出来るほど、人種問題は小さな問題ではない。事態は収束に向かったかのように見えるが、私は絶望感しか感じなかった。