【クラファン支援先に関して変更がございます】支援先の子どもたちを訪れて
クラウドファンディング支援者の皆様
ご支援、本当にありがとうございました。本日は1点お知らせがございます。
私とクラリスが支援する予定であった子どもたちのいる地域に関して、変更が生じました。当初の予定では、私とクラリスの近所に住む子どもたちを支援するつもりでおりましたが、Zagnanado(ザーニャナド)という、より田舎の地域にいる子どもたちを支援することになりました。私たちが住むアボメ・カラビから、乗り合いタクシーとバイクを乗り継いで4時間ほどの場所です。
変更になりました理由は、私とクラリスの間でしっかりとコミュニケーションが取れていなかったことです。私としては、目の前にいる近所の子どもたちを支援したいと考えていましたが、クラリスはせっかく日本の支援者の皆様から大金を頂戴したのならば、まだ誰の支援も入っていない、誰にも見てもらえていない農村部にいる貧困地域に教育の機会を届けたいと考え始めたようでした。お互いの齟齬に気が付いたときには、すでにクラリスが受け入れ先となる学校の校長先生たちにコンタクトを取り、挨拶に向かう手はずも整えてしまっていた後でした。
同じベナンの子どもたちであることに変わりはありませんが、Readyfor サイトで紹介したことと話が変わってしまったことは事実ですので、訂正・お詫びをいたします。全ては私の確認不足であることと、契約書やサイト内の情報と矛盾することはしてはいけないということを私がクラリスに説明することを怠ったからでございます。支援者の皆様には、不信感を抱かせてしまい、大変申し訳ございません。また、支援先が遠くなったからといって、皆様からいただいたお金を交通費にあてることも一切いたしません。子どもたちの教育費に全て費やします。今後は、私もクラリスもお互い外国人同士ですので、お互いの考えが当たり前であると思わずに、細かなことまでしっかりと確認をして参ります。今後も何卒よろしくお願い申し上げます。
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11月29日(金)、今日はクラリスとクラファンで支援する子どもたちに会いに行くことになっている。お礼のポストカードに子どもたちの名前を書いてもらったり、子どもたちを受けて入れてくれる学校にも挨拶をすることも兼ねている。
受け入れ先の学校訪問についてはすんなり許可が下りた。それどころか、校長先生たちが、何を勘違いしたのか、私とクラリスのことを「権威ある人」と思い込んでいたそうだ。さらに、そのうちの1人が日本人であると知るや否や、普段シャワーを浴びれない子どもたちに、この日だけはどんな手段を使ってでも体を洗えと指示をしていたらしい。教室も子どもたちに掃除をさせておく、と言っていたらしい。とんでもない。私たちはただの民間人である。
昨夜のうちにポストカードの宛名書きも済ませた。久しぶりに日本語を書いて手がプルプルと震えた。ポストカードに子どもたちの名前を書いてもらうために、忘れずにバッグに入れた。
向かう先は、Zagnanado(ザーニャナド)という、我々が住む場所から乗り合いタクシーとバイクタクシーを乗り継いで4時間ほどの場所だ。どこかで宿泊出来たら余裕を持って行動出来るのだが、残念ながらそんなお金は無いため、日帰りである。今日中に戻るべく、朝6時に家を出た。
まずは乗合タクシーで、Bohicon(ボヒコン)という場所まで向かった。ボヒコンまでどうやって向かうのか、とクラリスに聞いたところ、taxi と答えた。2時間ほどかかると言うので、確かにタクシーならば快適である。私は片付けたい仕事もあったので、パソコンを持っていくことにした。
ところが、タクシーと聞いていた私は、実際に乗り込んだ車を見て自分の勘違いに気がついた。タクシーはタクシーでも、乗り合いタクシーであった。普段よく見かける、危険極まりないものである。まず、乗車率は確実に100%を超える。定員などという概念はない。ガソリン代も跳ね上がっているので、乗せられるだけ、いや、もはや乗っているというか、つかまっているだけに近い人もいる。ドアはもはや閉まらないので壊され、そこから半身はみ出して車の屋根につかまりながら乗ったり、本来トランクの役割を果たすところに人が乗っていることもある。
私たちがつかまえた乗り合いタクシーは幸い、大型車ではなく、私たちが乗ったときにはまだ定員内であった。ここから人が増えるので、それまでにパソコンでの仕事を片付けることにした。
途中、新たに男性が乗ってきた。後部に私たち女性が3人いるので、彼は最初から助手席に座っていた男性と助手席をシェアした。いや、シェアではなく、カバーである。完全に膝の上に乗っている。さらに途中で、女性が乗ってきたので、後ろに座ることになった。本来3人がけのところに4人が乗っている。そして言っちゃ悪いが、私のサイズが4人ならまだしも、体格の良い女性が3人なので、肩と肩は重なるし、太ももも若干被っている。この状態で2時間余り過ごした。
タクシーを使うのはボヒコンまでである。そこからはバイクでないと移動が出来ない。さらに、私たちが住む地域の道ですらデコボコの舗装されていない道であるのに、ボヒコンから先はよりデコボコが激しくなるとのことなので、バイクに3人乗りは危険と判断したクラリスは、1台バイクタクシーを雇い、クラリスのお兄さんにも応援を頼んだようだ。バイクタクシーの方にクラリスが乗り、お兄さんの方に私が乗ることになった。よって、クラリスのお兄さんは私たちが乗り合いタクシーに乗っている間もずっと後ろからバイクで2時間付いてきてくれていたのだ。
ボヒコンでタクシーを降りた後、いよいよ支援先に向かった。ボヒコンもまあまあ田舎ではあるが、ボヒコンを通り過ぎると、完全に田舎の農村部に入った。私たちが住むアボメ・カラビも田舎だと思ったが、とんでもない。ここはお店の類はほぼ無いと言っていいくらいだった。そして、言われていた通り、デコボコ具合が激しい道であった。ボヒコンからすぐのところは道を舗装するための工事がなされていたが、それ以降は全く無かった。途中まではユニセフの看板が立っていたので、支援が入っているようだが、そこから先は、クラリスが言うように、誰の支援も行き届いていない、政府からも見放されているような地域であった。
お昼前にどうにか1つ目と2つ目の学校を訪れることが出来た。そして、お昼休憩を挟んで、午後に最後の学校に向かった。どの学校の子どもたちも、事前に私たちが来ることを知らされていたので、教室から好奇心いっぱいの眼差しで見つめていた。クラリスと、私と、クラリスのお兄さんと、バイクタクシーのドライバー総勢4名のうち、やはり外国人である私が目立ったのだろう。子どもたちの目が一様にこちらに向いていたのが面白かった。彼らにとって、外国人を見ることは初めてのようだ。そして、幸いであったのが、この3つの学校では、教材費、制服代、朝食代、入学金のうちどれか、あるいは全て払えていなかったとしても、校長先生たちの厚意で子どもたちを受け入れていたようだ。払えない家庭は門前払い、とはなっていないようだ。しかし、教材が買えないことによって、例え学校に来ていたとしても座っているだけになってしまっていたり、制服が無いので、ただでさえボロボロの服を着続けることになったりと、弊害は大きい。
3つの学校で子どもたちを訪れて、アボメ・カラビの子どもたちと比べると、さらに貧困のレベルが深刻であった。着ているものが圧倒的に異なる。ここでの子どもたちは、本当にどうにか1枚だけ調達しました、という感じで、それをさらに兄弟姉妹間で着回すというのだから、長らく洗濯も出来ていない。破れかぶれで、穴が空いていない服を着ている子なんていなかった。靴なんて以ての外だ。履いている子の方が少数であった。基本的にベナンの子どもたちはよく笑うと思っていたが、ここでの子どもたちは、顔が暗く、あまり笑わなかった。クラリスからは、事前に言われていた。ここの子どもたちを見ると、きっと泣いてしまうと。ある学校では、成績が一番優秀な男の子が制服もなく、教材費も何も払えていないということを知った。教材が無い中で、君は一番になったのか。クラリスはそれを知ると、涙ぐんでいた。
私は、彼らを見て何を思っただろうか。いや、何かを感じただろうか。振り返ってみると、実は、私は彼らを見ても何とも思わなかったに等しい。というか、あまりにも貧困のレベルが想像を超えていて、思考力も感情も停止したのだ。「乖離」という言葉が一番しっくりいく。隔たりがありすぎて、同情すら湧かなかった。元々、私は他者の気持ちなんて所詮分からないと思っていて、それよりも自分がどうあるべきかを考える。ましてや先進国からやって来た私に、彼らの気持ちなんて所詮分かるわけがない。私は、本当の飢えというものを知らない。教材が買えない苦労なんて知らない。ボロボロの服を毎日着続けなくてはいけない惨めさも知らない。裸足で歩く痛さも知らない。そんな私には、泣くことすら許されない。彼らに必要なのは、私の涙なんかではない。そんなものを子どもたちに見せたところで何の役にも立たない。彼らが困るだけだ。そう考えたのか、目の前にそんな子どもたちがいても、涙すら流れなかった。
お昼ご飯は、クラリスの生家でいただくことになった。そう、実は、クラリスはここの地域出身なのである。クラリスがここをクラファンの支援先に変更したかったのは、恐らく自分が味わった貧困を今まさに経験している子どもたちを救いたいと思ったからなのではないだろうか。クラリスのお父さんは広大な農家を営んでいたが、早くに亡くなった。そのあと、お母さんとクラリスたち兄弟姉妹は長らく貧困生活を強いられることになったのだ。クラリスが生まれた家には、今親戚の人が住んでおり、その人が私のためにご馳走を用意してくれているとのことだ。残念ながらお母さんは不在であった。
ど田舎で、排気ガスもなく静かで風が心地よい。外で食べても、木が日差しから守ってくれて、暑さを感じなかった。ここでお昼ご飯をいただいた後、少し休憩をしてから最後の学校に向かうことになった。
最後の学校でもまた、前2つの学校と同じような子どもがたくさんいた。校長先生が珍しく女性で、今回の支援にとても感謝をしてくれているものの、予算の関係で支援出来る子どもの数に限りがあることを心底残念そうにしていた。今回のプロジェクトでは、まず私たちがしっかりと結果や成果を残さなければいけないので、いただいた支援金で3つの学校の子どもたちを支援しなければいけない、ということを最終的には分かってくれた。
帰り道、何もない道を戻りながら、今後のことを考えてみた。多分、私の役割は、ある意味感情を押し殺して機械的に彼らの支援をすることなのではないかと思う。感情なんて入れて、いちいち泣いている暇があったら、さっさと知恵を絞って彼らに学びの場を与える手段を考えることが、彼らの気持ちなんて分からない私が唯一出来ることだと思う。言い換えると、よそ者の私にしか出来ないことだと思う。クラリスは、幼少期に貧困を経験した。それも、ベナンの中でも深刻なレベルでの貧困を。だから彼女が同情の涙を流すことは理にかなっている。しかし、私にはその資格すらない。
「乖離」という言葉を使ったが、この気持ちは以前味わったことがある。それは、私が初めて学校の先生になったとき、初めて生徒を前に授業したときであった。自分と彼らの差がありすぎて、「英語が出来ない」彼らの気持ちが分からなかった。集団授業では、1人1人の特性も事情も見えない。彼らが何につまずいていているのか、何に苦しんでいるのか、何が得意で、何が好きで、どんな子たちなのか、全く見えなかった。授業をしていても、彼らと通じ合っている気になれなくて、自分1人で授業をしている気分だった。ずっとそれで悩んでいた。分かるようになった、と言っていいかは分からないが少なくとも、「乖離」を感じなくなったのは、4年目くらいからだったと思う。彼らが私を見て、私が彼らを見て、何となくだが通じ合っている授業が出来るようになった気がする。放課後に時間をとって話をしたり、同じクラスを継続して受け持ったりして、ようやく少しずつ見えてきた気がする。
多分、私がベナンの子どもたちに「乖離」を感じなくなるにはもっともっと時間がかかるのだろう。人種や言語だけでなく、育った環境が違う私に、彼らが「乖離」を感じなくなるかは分からないが。