ベナンの秘密

 9月29日(火)、朝から雨が降っている。今日も ATM へ行って、お金を引き出さなければならないが、この雨の中出歩くことは出来ない。少し様子を見ることにした。

 ヤフーニュースを見ていた。海外で暮らしていると、日本のニュースに疎くなるから、ヤフーニュースはこまめに見ているようにしている。最近気になっているのは、瀬戸大也の不倫だ。なんてのは冗談だ。人の恋路には一ミリたりとも興味が無い。むしろ、この不倫が発覚してから何日も経つのに、よくこんなに盛り上がれるよなとすら思う。
 私が最も気になっているのは、芸能人の自殺が相次いでいることだ。というか、芸能人に限らずだが、日本で自殺の報道を目にすることは本当に多い。何でこんなに多いのか。社会的病理と位置付けられているが、これはやはり日本社会に大きなひずみがあると思う。残された人は日常生活が奪われたわけだから、その理由を探ろうとするなんて愚かなことはしないが、単に私はどうしてベナンでは自殺者が出ないのかに興味がある。クラリスに聞いてみたのだ。ベナンで自殺者はいるのか、と。するとクラリスは間髪入れずに "No." と言った。その理由も、
 
     "I don't know."
 
だそうだ。 知らないということは、そんな理由なんて考える必要すらないということなのか。そして、日本で今自殺者が増えていることを伝えると、驚いていた。
 日本で起こる自殺の理由は、大人なら借金とか生活苦とか、子どもならいじめとか、もうそれこそ悲惨過ぎる理由だろう。ベナンで自殺が起きないということは、そういう悲惨なことが無いということなのか。
 確かに、クラリスを見ているとやたらポジティブだなと思う。そして、この根っからの面白い性格と愛嬌で、逆境を乗り越えている気もする。クラリスはそりゃ、未来に絶望することは無さそうだ。
 いじめに関しても、前にとあるベナン人の少年に聞いたことがある。ベナンの学校では、いじめという問題は起こらないと。嫌いな人や苦手な人はいても、その子をいじめたり攻撃することは無いそうだ。自殺やいじめの話だけ切り取ると、どっちが先進国だよ、と思いたくもなる。
 日本とベナンの決定的な違いは、宗教の有る無しではないかと思う。ベナンには色々な宗教があるが、クラリスが信仰しているキリスト教では、
 
     "You have to love and respect your family and your friends."
 
と教えられているそうだ。そして子どもに関しては、
 
     "Children have to obey their parents."
 
という教えを施されているから、家庭内での問題も起こらないそうだ。これは非常に興味深い。しかし、そう教えられたら、それを遵守出来るのか。でも日本だって、家庭教育や学校教育でも、人を傷つけてはいけませんと教えられている。親や先生という、「人間」からの教えと、「神」という絶対的な存在からの教えでは、遵守する心の持ちようも異なるということか。いじめや家庭内の問題も無いことが、宗教の教えがあるからというのなら、宗教がベナンの治安を守っているのか。しかし、同じ宗教を持つ国でも、戦争やら強奪やらで治安が悪い国だってある。とすると、宗教ではなく、ベナン人の国民性か。
 日本人だって、世界的に見たら相当穏やかな人種であると思うが、子どものときからストレス社会の中にいるのだから、ある種の攻撃性も持っている。小さいうちから人と比べられて、人を蹴落とせと言われて、でも人と同じでなくてはいけなくて、見えない圧力を感じながら生きている人は多いと思う。こんな子どもたちが一緒くたに教室に放り込まれたら、そりゃいじめは起きると思う。でも、人生に絶望したときに、その攻撃性が他者に向かうのではなく自分を傷つけることを選んでしまうのは、人を傷つけたくないという日本人の国民性なのだろうか。でも別にベナン人だって、人を傷つけているわけでもない。
 ベナンには、何の秘密があるのだろう。経済は逼迫して、国民の生活も決して豊かではないし、貧富の格差もある。日本のように社会保障制度や年金制度もないし、マラリアの危険性もあるし、乳幼児が安全に生まれてくる確率も高いとは言えない。交通事故も多いし、日本より圧倒的に死ぬ確率は高い。前に聞いたことがあるのだが、発展途上国ほど宗教の信仰心は強いそうだ。過酷な状況を乗り越えるためなのだろうか。だとすると、信じるものがあれば人は死なないのだろうか。
 1つ思い当たるのが、日本だとストレスやイライラに繋がることが、ベナンでは「仕方ない」で片付けられることだ。日本だと、時間にものすごく厳しくて、人との待ち合わせには何が何でも間に合わせようとする。首都圏だと特に、電車やバスの路線はおびただしいほどだから、遅刻する理由を作ることが出来ない。ある路線がダメでも、別の路線で迂回出来る。遅刻をしようものなら、もっと早く家を出ればいいことだと言われる。でもベナンでは、雨が降ったら車もバイクタクシーも水はけの悪い道路を走ることが出来ないから、移動する手段は全て断たれる。だから、雨が降れば誰も移動が出来ないことは、皆が知っている。加えて、停電や断水もあるから、連絡が遅れたり、ご飯を作ることが出来ず、人から分けてもらうことだってある。学校に行けば、必要な教材や教科書を持っていなくても、誰かとシェアをしている。買うことが出来ない状況も皆が知っているから、「仕方ないね」で済んでいる気がする。しかし、日本だったら全てが整い過ぎていて、遅刻も連絡手段が断たれるのもご飯を作ることが出来ないのも、全て自己責任となる。教材や教科書が買えないことなんてほぼ有り得ないから、忘れたり無くしたりしたら自費で再購入するし、お説教が待っている。何不自由がないからこそ、どんどん追い込まれている気がする。
 もしかしたら、ベナンのこの不自由さこそが、人々の寛容さを保っているのかもしれない。経済や技術の発展は、100パーセント人々に幸福をもたらすとは限らない。ベナンがもし日本と同じように競争を重んじるようになって、人々の生活が大きく変わってしまったら、同じようにストレス社会となっていじめや自殺者が出てしまうかもしれない。そのとき、果たしてベナンは宗教を手放しているのだろうか。それとも、経済が発展しても、神の教えも変わらず遵守するのだろうか。あるいは、経済の発展に伴って神の教えやその解釈も変化していくのだろうか。うーん、分からない。